グレゴリオ聖歌は、瞬く間にヨーロッパ全土に驚くほど均質な様式を保ちながら普及した。カール大帝は神聖ローマ皇帝となると、聖職者にグレゴリオ聖歌を用いなければ死罪とすると脅迫し、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図った[15]。英語やドイツ語の史料からは、グレゴリオ聖歌は北はスカンディナヴィア、アイスランド、フィンランドまで広まったことが窺える[16]。885年には、教皇ステファヌス2世が教会スラヴ語を用いた典礼を禁止し、これによりポーランド、モラヴィア、スロヴァキア、オーストリアなどを含む、東方のカトリック教会支配域でもグレゴリオ聖歌が優勢となった。
西方キリスト教世界の他の聖歌は、新しいグレゴリオ聖歌の強い圧迫をうけることとなった。カール大帝は父の方針を受け継ぎ、現地のガリア式の伝統を捨て、ローマ式の典礼を好んだ。9世紀には、ガリア典礼およびガリア聖歌は実質的には廃止されたが、これには地元の抵抗がないわけではなかった[17]。イングランドではソールズベリー式典礼(サルム典礼)においてグレゴリオ聖歌がケルト聖歌を駆逐した。ベネヴェント聖歌については、1058年の教皇教令によって禁止されるまで、1世紀以上、グレゴリオ聖歌と共存した。モザラベ聖歌は、西ゴート族とムーア人の流入のなか生き残ったが、レコンキスタによりスペインにローマの支持を受けた高位聖職者が配置されるに至り、廃されることとなった。一握りの限られた教会でのみ歌うことが許されたために、現代のモザラベ聖歌はグレゴリオ聖歌との同化が進み、もとの音楽的形態をほとんど留めていない。アンブロジオ聖歌のみが、アンブロジウスの音楽家および宗教者としての権威のために、今日までミラノにて残存している。
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グレゴリオ聖歌は、やがて、ローマの固有の聖歌(今日では古ローマ聖歌と呼ばれる)にもとって代わるようになる。10世紀には、イタリアでは実質上、音楽の記譜はまったく行われておらず、ローマ教皇たちは、10世紀から11世紀にかけて、神聖ローマ皇帝からグレゴリオ聖歌を移入し続けた。例えば、クレドは神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の要望で1014年にローマ典礼に追加されたものである[18]。大聖グレゴリウスの伝説によって権威が高められたグレゴリオ聖歌は、ローマ固有の真正な聖歌とみなされるようになり、今日にまで至る。12世紀、13世紀には、グレゴリオ聖歌は西方キリスト教世界の他の聖歌を完全に凌ぎ、駆逐した。
他の聖歌に関する後代の史料からは、聖歌をグレゴリオ聖歌的な教会旋法に組織する試みなど、グレゴリオ聖歌の影響が強まる様子を見ることができる。一方で、これらの失われた聖歌の伝統はグレゴリオ聖歌の中に取り込まれていったことが、様式の分析や歴史的分析によって明らかになってきている。例えば、聖金曜日のインプロペリアは、ガリア聖歌の伝統を残していると考えられている[